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死神としての侍グローバリズム論―「死」を印象付けた侍―

宮本健太・経済学部一年

 

 

様々な事柄がグローバル化してきた中で「侍」もその例に漏れないと考える。なぜならば「侍」は英語、ドイツ語、さらにフランス語でも「samurai」で通じるからである。「samurai」という言葉が世界で一般的になっている最大の要因は、新渡戸稲造が海外の読者層を意識して書き、ベストセラーとなった『武士道』の影響が大きいと考える。また、日本の文化である「侍」には「warrior」「swordsman」では表しきれない独特の性質によってグローバル化した側面があるのではないかとも考える。その性質とは「切腹」「尊皇攘夷思想」に対し外国人が持った「恐怖」である。この二つの要素を考察するために、まず「武士道」に触れた後、「切腹」「攘夷思想」の順で考えを深めたい。なお、広辞苑では「侍」は「武士」と同意義であり[1]、和英辞典でも侍も武士も「samurai」と表されるので[2]、「武士」も「侍」の意味で扱う。

 

1.1新渡戸稲造の生涯

 『武士道』を語るには、その著者である新渡戸稲造の一生を語らねばならない。なぜならば新渡戸稲造は北海道大学に属する者ならば誰もが知らなければならない人物であるのはもちろんのこと、新渡戸自身が「その内容は主として、私が少年時代、封建制度のなお盛んであったときに教えられ語られたことである[3]」と言っており、彼の人生が色濃く『武士道』には反映されているからである。

 新渡戸稲造は1862年に岩手県盛岡市に生まれ、1877年に北海道大学の前身である札幌農学校の2期生として入学する。この時、同学年の内村鑑三と親交を結び、共にキリスト教の洗礼を受ける。1883年には東京大学に入学するも翌年に中退。1884年に渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学在学中にフレンド派クエーカー教徒になる。また、ドイツへも留学しており、農政学などを研究している。1891年には妻のメリーと結婚しており、帰国してからは札幌農学校の教授となっている。1990年に『武士道』をアメリカで執筆出版し、帰国後には台湾総督府の技師、京都大学教授、第一高等学校校長、そして東京大学教授を歴任している。女子教育にも尽力しており、1918年には、東京女子大学初代学長となっている。1920年から1926年まで国際連盟事務局次長を勤め上げ、1929年には太平洋問題調査会の理事長にもなった。そして、1933年10月16日、第五回太平洋会議の途中にカナダで死去する。享年71歳であった[4]。故郷である岩手県の新渡戸稲造を記念する石碑には「願わくは われ太平洋の橋とならん」という言葉が刻まれており、彼が生涯を通して叶えようとした夢であった。では『武士道』が書かれた経緯はどのようなものであったのだろうか。『武士道』は、新渡戸稲造が妻であるメリー・P・E・ニトベに武士道を理解してもらうために語って聞かせたものを、新渡戸の友であり秘書とも言えるアンナ・C・ハーツホーンが口述筆記し、新渡戸自身が加筆修正したものであり、新渡戸と15年以上の知り合いであるウィリアム・エリオット・グリフィスが「緒言」を書きアメリカで1990年に出版された。この時、新渡戸がベルツ博士の勧めによりカリフォルニア州で転地療養中であったことはあまり知られていないことである[5]。一方有名な話としては、日露戦争の調停役を果たしたセオドア=ルーズヴェルト米大統領が『武士道』を愛読し、知人に配るほどであった。

 

1.2『武士道』の評価

 『武士道』が刊行されてからその評価は賛否両論に分かれている。鈴木忠信の『『武士道』をどう読むか?』から抜粋すると、「Athenaeum誌(August19,1905,229)に掲載された匿名者評は「都合のいいことばかり陳述した誤解に導く作品」だと下しているのに対し、同じ月に出たAmerican Monthly Review of review誌は「非常に面白く書かれた日本の哲学と社会思想の解説書」」と正反対の評価をしている[6]」とある。さらに同書には、「カナダのマクギル大学の太田雄三教授は、新渡戸稲造が意識的に欧米人も普段使わないような難解な英単語を多く使っていることに注目し、英語圏の読者に自分の教養を誇示しようという意図があったのではないかと推測している[7]」と書いており、さらに「トレント大学のセロ・パウルス名教授は、新渡戸が徳富蘇峰、中江兆民、三宅雪嶺など当時武士に関する権威があった日本人に一切言及していないのに対し、マルクス、ニーチェ、ヴェブレンなどの欧米の思想家は引用しており、東洋の権威としてはもっぱら孔子、王陽明、山鹿素行など古典的人物に限って引用していることを指摘する[8]」「パウルスは、『武士道』に偏狭なナショナリズムと普遍的ヒューマニズムが内在している事実をも、矛盾として問題提起している[9]」とも書いている。以上から見ても、日本人だけでなく、多くの外国人が『武士道』について考察していることがわかる。つまり、それほど新渡戸稲造の書いた『武士道』は多くの人々に読まれ、反響があったのである[10]

 

1.3『武士道』の特徴

 ではなぜここまでの反響があったのであろうか。この章では『武士道』の特徴を探っていくことでその理由を見つけ出したい。

『武士道』は、「第一章 道徳体系としての武士道」「第二章 武士道の淵源」「第三章 義」「第四章 勇・敢為堅忍の精神」「第五章 仁・惻隠の心」「第六章 礼」「第七章 誠」「第八章 名誉」「第九章 忠義」「第十章 武士の教育および訓練」「第十一章 克己」「第十二章 自殺および復仇の制度」「第十三章 刀・武士の魂」「第十四章 婦人の教育および地位」「第十五章 武士道の感化」「第十六章 武士道はなお生くるか」「第十七章 武士道の将来」で構成されている。どの章も日本でも外国でも基本とされている徳を述べたものであり、目新しいものではない。なぜならば同書には引用が数多く用いられており、武士道の裏付けとしているが、裏付けできる引用が外国にもあるということはどの章の徳も外国でも基本的であることを示している。ではなぜ海外で反響があったのだろうか。『武士道』の特徴は序論でも書いたように海外の読者層を意識して書かれたことである。『武士道』が出版されるまで日本に関する英文はもちろん存在した。しかし、「彼ら(ラフカディオ・ハーン、サー・アーネスト・サトウなどの海外における日本文化の権威のこと)はたかだか弁護士もしくは検事の立場であるのに対し、私は被告の態度を取りうることである[11]」と新渡戸がいっているように、『武士道』は日本人によって書かれた日本論として注目を浴びていたことは事実である。内容も日本文化が押し出されている。たとえば俳句・短歌がいたるところに登場しており、新渡戸は「日本において武士階級の間に優雅の風が養われた[12]」としている。また、「茶の湯」が精神修養の場となっていたことを説明しているし、ヨーロッパ人は薔薇を愛し、日本人が桜を愛することを挙げて、「桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった[13]」とも言っている。さらに第十二章・第十三章はまさに日本独特の文化を説明した章である。以上から、『武士道』は外国人にとって日本文化に興味を抱かせる内容になっている。また、様々な徳を説いているゆえに啓蒙・啓発本として受け入れられていたことが考えられる。つまり、新渡戸版『自助論』といったところだろうか。さらに、有名な西洋人の引用が多く、新渡戸がキリスト教徒だったことから海外受けしたことも要因であろう。そして驚くべきは翻訳本の多さである。同書は英文で執筆出版されてから、マーラッタ語版、ボヘミヤ語版、ポーランド語版、ドイツ語版、ノルウェー語版、チェコ語版、ポーランド語版、ハンガリー語版、中国語版、アラビア語版、フランス語版、ロシア語版と各国語版が次々と出版されており、世界に遍く普及していることがわかる。

 

2.1切腹

 次に外国人にとって理解しがたく、かつインパクトを与えたであろう「切腹」について考察する。先程に引き続き『武士道』よりミッドフォードの著書『旧日本の物語』の中で彼自身が目撃した実例である。

「善三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺まで露わし、仰向けに倒れることなきよう、型のごとくに注意深く両袖を膝の下に敷き入れた。そは高貴なる日本士人は前に伏して死ぬべきものとせられたからである。彼は思入れあって前なる短刀を確かと取り上げ、嬉しげにさも愛着するばかりにこれを眺め、暫時最期の観念を集中するよと見えたが、やがて左の腹を深く刺して徐かに右に引き廻し、また元に返して少しく切り上げた。この凄まじくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前にかがみて首を差し伸べた。苦痛の表情が始めて彼の顔を過ぎったが、少しも音声に現われない。この時まで側に蹲りて彼の一挙一動を身じろぎもせずうち守っていた介錯は、やおら立ち上り、一瞬大刀を空に揮り上げた。秋水一閃、物凄き音、どうと仆るる響き、一撃の下に首体たちまちその所を異にした。

場内寂として死せるがごとく、ただ僅かに我らの前なる死首より迸りいずる血の凄じき音のみ聞えた。この首の主こそ今の今まで勇邁剛毅の丈夫たりしに!恐ろしい事であった[14]。」

 新渡戸は、様々な西洋の偉人が自身の名誉を守るために自殺をしていることを例に挙げ、さらに切腹を「特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以って霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである[15]」とし、「近世の神経学者は、腹部脳髄、腰部脳髄ということを言い、これらの部分における交感神経中枢は精神作用によりて強き刺激を受けるとの説を唱える。この精神生理学説がひとたび容認せらるるならば、切腹の理論は容易に構成せられる[16]」と医学的に説明し、外国人にとって切腹が奇異なものに感じるかもしれないが、決してそのようなものではないと主張している。しかし、ミッドフォードが見たように、介錯人付きで型まである自殺が西洋に存在するだろうか。おそらく、切腹を実際に見た外国人はそのエキゾチックな自殺光景を目に焼きつけ、また、侍は他の民族とは異なるといった印象を持ったに違いない。

 

2.2切腹の悲惨な光景[17]

 では「切腹」のどのようなところが外国人にインパクトを与えたのだろうか。もちろん人が死ぬというだけでも十分なインパクトがあるが、切腹においてはさらに違う衝撃を受けることが考えられる。武士の刑罰としての切腹と、主君が死んだときに後を追って死ぬ殉死ための切腹の二つだけでも50種類くらいの切腹方法がある。しかし、どれもが一文字腹(腹を一文字に裂く方法)と十文字腹(腹を十文字に裂く)の類型に区分される。そして、その光景は悲惨なものである。何故ならば「腹壁には大血管が通っていないから、出血のみによって死ぬ可能性が極めて低い。また、内臓の露出だけでも同様で、ことに腹部の臓器は消化器だから、循環器や呼吸器のように生命維持に直結していない。したがって、これを損傷したからといって即時生命が失われることは稀である[18]」ので、はらわたを露出させながら、長時間苦しんだ挙句に死ぬことになる。また、「切腹によってまず露出する大網膜は淡黄に近く、その下の大腸は象牙色ないし灰色、小腸は桃色か柿色に近く、水に濡れているように輝きのある鮮やかさをもつ[19]」ことから、切腹を見た誰もが鮮明な色と共に大きな衝撃を受けるのは当然である。

 

3.1攘夷思想

以下は1860年から1862年の二年間に起こった、外国人を日本人が殺害した事件である[20]

1860年           ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケンが江戸で薩摩藩の浪士に殺される。

1861年           東禅寺事件・・・高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受ける。

1862年           生麦事件・・・神奈川宿に近い生麦で、江戸から帰る途中の島津久光の行列を

             横切ったイギリス人が殺傷される。

イギリス公使館焼打ち事件・・・品川御殿山に建設中のイギリス公使館が高杉新作・井上馨・伊藤博文らによって襲撃されて全焼する。

この年表の事件の共通点は、どれも攘夷思想により起こった事件である。この攘夷思想こそが侍を外国人殺害に突き動かしたことは明白である。では攘夷思想とはどのようなものであったのだろうか。

星山京子の『徳川後期の攘夷思想と「西洋」』を参考として攘夷思想を探ることにする。攘夷思想は後期水戸学により急速な発展を遂げた。水戸藩は太平洋沿岸に位置し海岸線が長かったため、実際に外国船が来航しやすかったこともあり、対外危機を強く持っていた。水戸藩出身で「新論」を著した会沢正志斎もその一人である。彼は西洋諸国の科学技術水準の高さを熟知しており、彼らが日本に近づくのは侵略のためだとして列強の侵略的野心を指摘している。また、キリスト教を他国併呑しようとする際の常套手段と認識しており、特に激しい恐怖心と敵意の目を向けていた。さらに、人論を摩滅し、現体制と秩序を崩壊せしめる邪教であるとも考えていた。同様に、幕末政局に携わった水戸第九代藩主徳川斉昭も西洋列強に危機感を抱いており、西洋諸国に打ち勝つためには、まず夷狄を激しく憎む精神性を身につけなければならないと考えていた[21]

以上のように西洋列強に対する危機感が攘夷思想となったことが理解できる。また、ペリー来航やアヘン戦争で清国が敗れたことなどが、水戸藩などの海岸に面する藩だけではなく、日本国民全体に危機感を浸透させ、攘夷が噴出したのは明白な事実である。皮肉なことに、恐怖を武器にアジアに近づいてきた西洋諸国が、東アジアの侍に惨殺される恐怖を味わうのである。

 

3.2生麦事件

この章では侍による外国人殺害事件である「生麦事件」を考察する。この事件は、後に薩英戦争を引き起こし、攘夷論の無謀さを知った薩摩藩は幕府を倒すことを考え始め、明治維新を成立させるに到った歴史的意義を持つ事件である。しかし、ここではこの事件を違う側面から見ることを試みる。つまり、侍が如何にして外国人を惨殺したかである。

 吉村昭の『史実を歩く』より生麦事件の詳しい内容は以下のとおりである。

「その年(1862年)の五月二十二日、薩摩藩主の島津茂久の父久光は、公武合体を幕府に認めさせるため、天皇の命を受けた勅使大原重徳に随行して京を発し、六月七日に江戸へ入った。紆余曲折はあったが、一応任務を終えて久光は京にもどるために八月二十一日に江戸を出立した。残暑のきびしい日であった。

行列は四百余人の藩士によって組まれ、東海道を進み、生麦村(現横浜市鶴見区)に入った時、前方から横浜村在住のイギリス人商人マーシャル、クラーク、リチャードソン、と女性のマーガレットが馬に乗って近づいてきた。川崎大師を見物しようとしたのである。

行列は、先導組、久光の乗物を警護する本体、後続組が一定の間隔を置いて進んでいた。薩摩藩の藩論は、尊皇攘夷で統一され、藩士は攘夷つまり外国人を追い払うべしと強く主唱していたので、近づいてくる四人の商人のイギリス人に険しい眼をむけた。馬は男が乗るものであるのに、マーガレットが手綱を取っているのも腹立たしかった。

マーシャルたちは、先導組のかたわらを過ぎた。

つづいて後方から本隊がやってきた。それは、久光の乗り物を警護する左右にひろがった規模の大きな集団で、マーシャルたちは道の左端に馬を寄せて通り過ぎようとしたが、それは無理で馬が行列の中に踏み込んだ。大名行列を乱す者は切り捨てるというしきたりがあり、激昂した藩士たちは抜刀し、奈良原喜左衛門が、リチャードソンに走り寄って左脇腹を斬り上げ、さらに左肩から斬り下げた。マーシャル、クラークも他の藩士に斬られ、二人は無傷のマーガレットとともに馬で逃げ、マーシャル、クラークは神奈川宿のアメリカ領事館に、マーガレットは横浜村の居留置に入った[22]。」

 

3.3恐怖

 当時日本国内では尊皇攘夷思想が盛んであり、その筆頭は長州藩と薩摩藩などであった。彼らは外国人に激しい憎悪を抱いていた。生麦事件が発生すると四人のイギリス人のうち3人は刀で傷を受けた。しかし、リチャードソンの傷は深く、リチャードソンの傷をおさえていた左手を斬った久木村利久の刀は曲がっており、鞘に納まらないので手拭で巻いて担いで行く事にしたほどであった[23]。リチャードソンは逃げたが、侍に追いつかれてしまう。先導組の指揮者である海江武次は、「死の訪れが迫って苦しみもがいているリチャードソンに、「楽にしてやる」と言って脇差を抜き、とどめをさすため心臓に深く刃先を突き立てたのである[24]。」この時、宮澤眞一によると「リチャードソンは(太刀を)手で避けようとして、手首を深く切り込まれた。腕から手首がダラリと垂れてしまい、今にもとれそうになった[25]」とあり、最終的には斬られて死んでいる。ここに侍の残忍さが見て取れる。一方、クラークは出血のために時折失神状態になり、マーシャルも気を失いかけていたが、マーガレットも含め三人は命からがら逃げることができた[26]。実際のところ、このような事件は頻繁に起こりそうになっている[27]。大名行列の習慣的な権利と条約の三条に定めた外国人通行の権利は当然相反するものであったし、幕府は権利の衝突を回避しようと対策に苦慮していた[28]。つまり、日本にいた外国人は、侍に斬り捨てられる可能性が大いにあり、死と隣り合わせであったことがわかる。

 

 終わりにこれまでの内容を簡潔に示し、今後の課題を述べて結びとしたい。道徳的侍のイメージが広く普及したのは新渡戸稲造の『武士道』で間違いない。彼が英文の熟練者であったのはもちろんのこと、『武士道』が世界に広まる要素を有していることは既に述べた。しかし、『武士道』が出版される以前はマイナスのイメージで侍は浸透していた。切腹という独特な文化は外国人を驚愕させていたし、尊皇攘夷思想に突き動かされた侍が外国人を惨殺していたことは、彼らにとっては脅威であった。我々が死神について理解不能であり、死をもたらす者として恐れているように、外国人もまた、切腹という理解し難い文化を有し、刀で斬り捨てることを厭わない侍は恐怖の対象であったに違いない。また、侍は自分の身をもって「死」を伝えていたどころか、他者の身をもってまでも「死」を伝えていたことにも異質性を感じる。まさに侍は死の象徴である「死神」として世界に轟いていたのである。

 しかし、私が以上に述べてきたのは「侍」がグローバル化した理由の根本的部分である。現代でも「侍」という言葉はさらに世界に広がり、侍のイメージは変わり続けている。新たな日本の文化であるアニメ、ゲーム、漫画などの媒体を通して侍は今でも生き続けていることは我々がよく知っていることであり、日本を宣伝するために侍が使われることも少なくない。また、『ザ・ラストサムライ』など外国人による侍映画も登場している。現代における侍の変貌を観光やメディアと関連づけて検討することもこれからの研究課題である。

 

 



[1] 新村出編、『広辞苑 第6版』、「侍」の項目を参照

[2] 小西友七編、『グランドセンチュリー和英辞書 第2版』、「さむらい」「ぶし」の項目を参照                                                                                                                          

[3] 新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳、『武士道』、p12

[4] 新渡戸稲造著・須知徳平訳、『武士道』、著者プロフィールを参考にした。」

[5] 太田愛人、『『武士道』を読む』、p76p88を参考にした。

[6] 『新渡戸稲造研究』(第十四号)、鈴木忠信、『「武士道」をどう読むか?−その執筆背景から今日的意義を考える』、p94

[7] 同掲書、p95

[8] 同掲書、p95

[9] 同掲書、p95

[10] 『新渡戸稲造研究』(第十四号・第十五号)、「武士道」出版当初の海外書評(上・下)には合計で24の書評が掲載されている。

[11] 新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳、『武士道』、p12

[12] 同掲書、p58

[13] 同掲書、p145

[14] 同掲書、p112p113

[15] 同掲書、p107

[16] 同掲書、p108

[17] 千葉徳爾の『日本人はなぜ切腹するのか』を参考にした。

[18] 同掲書、p26p27

[19] 同掲書、p33

[20] 石井進・五味文博・笹山晴生・高埜利彦(他9名)、『詳説日本史 改訂版』、p231を参考にした。

[21] 星山京子、『徳川後期の攘夷思想と「西洋」』、p71p113を参考にした。

[22] 吉村昭、『史実を歩く』、p126〜p127

[23] 同掲書、p134〜p135

[24] 同掲書、p136

[25] 宮澤眞一、『「幕末」に殺された男―生麦事件のリチャードソン―』、p152

[26] 同掲書、p153〜p155

[27] 同掲書、p139〜p145には他にも大事件に発展しそうになったケースが紹介されている。

[28] 同掲書、p139